2006/11/27

インフォームド・チョイスが必要

 病院が好き、という人は少ないだろうが、私はいままでそれほど病院が嫌いというわけではなかったし、診察、検査を必要以上に嫌がったり、怖がったこともなかった。
 ところが、この1、2年、どうも病院(医療法では患者20人以上を収容するものを病院というが、ここでは医療機関全般を指して使っている)が好きになれない。いや、はっきり言うと病院が怖くなっている。だから、検査に行くのが非常に億劫で、なんとか行かなくても済む理由を考え、病院に行くのを1日延ばしにしてきた。

 なぜ、それほど病院が怖いのか。
といっても、小さな子供ではないから病院という建物に恐れをなしているわけではない。中で行われる医療行為に怖さを感じだしたということだ。
 事の発端は胃の内視鏡検査である。内視鏡検査そのものはそれ以前にも胃・大腸で行っているから初めてではなかった。
以前と同じ病院だし、内視鏡検査はうまいという評判のところだったので、その時までは何の不安も感じていなかった。

 ところが、診察台に横になった後の記憶が欠落し、次に覚えているのは別のベッドで目覚めたことだった。検査中のことが全く思い出せないのだ。
後で分かったのだが、鎮静剤を使用し、それで眠らされたようだ。眠らされている間に胃カメラの検査は終わり、後ほど医師から録画モニターを見ながら説明を受けたが、どうもすっきりしなかった。

 当初、私は麻酔を使われたのかと思い医師に抗議したが、麻酔ではなく鎮静剤ということだった。そういえば前回の大腸検査の時は治療中に検査医師が「鎮静剤が効いてない。もう1本打って」と言っていたのを思い出した。
この時は胃と大腸を続けて内視鏡検査をしたのと、大腸検査は初めてだったので、そんなものだと思っていた。

 その後、帰省中に母と内視鏡検査の話になった時、「私は先生と一緒にモニターを見ながら検査した」と母が言うのを聞いて疑問を持った。私の時とは違ったからだ。しかも母の検査の方が後である。
病院が違えばやり方は違う。そう感じた。

 どちらが安心だろうか。
人によるだろうが、私はリアルタイムでモニターを見ながら治療を行ってもらう方が安心である。
少なくとも医師の声は聞いておきたい。

後で結果だけ教えられても、治療中に何が行われたのかが分からない。
はっきり言うと、治療中に医療過誤があっても分からないわけだ。
以来、病院が怖くなった。
内視鏡検査に言い知れぬ恐怖を感じるようになったのだ。
不思議なもので、一度でも恐怖を感じると、足がすくんでもう前へ進めなくなる。小学生の時、跳び箱で失敗してから、以後何度やっても踏切板の前で止まってしまったことがあったが、あれに似ている。

 それから折に触れ、内視鏡検査をしたという人に尋ねてみた。
ある人は鎮静剤で眠っている間に終わってよかったと言い、ある人は事前に医師から2つの方法があるが、どちらでも好きな方を選択するように言われたと言い、ある人は「最近は鎮静剤を使うところが増えているが、私は患者さんと会話をしながらやるようにしているので鎮静剤は使わない。鎮静剤を使って眠っている間にやると楽だが、非常にまれだがミスがないとも限らない。その場合、患者さんに意識がないと状態が分からないからです」と説明を受けたと言う。

2006/11/26

「慣れ」と「作業」が医療ミスを招く。

 私自身もヒヤッとした経験をしたことがあります。
妻が旅立った後ずっと胃の調子がおかしく、いつも胃がもたれているようで何を食べてもおいしくないし、食欲も湧いてこないので、胃カメラ検診を受けることにしました。

 喉にゼリー状の局部麻酔液とスプレーで麻酔をし、検診台に横になり再び喉にスプレー。
その時検査技師が「あまりすると不整脈が出るよ」と言っているのが聞こえました。
その後、「眠くなる注射をしますね」と言われ、静脈に注射針を刺されたところで、私の意識はプッツリと途切れました。

 目覚めたのは1時間50分後。別の部屋の仮眠ベッドの上でした。
ところが、その間のことを何一つ覚えてないのです。
注射針を抜かれたことも、胃カメラを飲んだことも、部屋を移動したことも。

 目覚めてから、「麻酔が効きすぎたのではないか。全く何も覚えてない」と医師に訴えたところ、「麻酔ではなく眠くなる注射です」と言われたが、どちらであれ意識を失っていた(記憶が途切れていた)のは恐ろしいと思いました。
もし、何かミスがあっても、何も分からないからです。

 医師の方も患者の反応を見ながら検診する方が事故に繋がらないのではないでしょうか。
1日に何人も、それも来る日も来る日も同じようなことをやっていると、いつしか流れ作業のように工程をこなすようになってきます。
これはどの仕事でも同じです。

 ですが、医師が相手にしているのは生身の人間であり、人の生命です。
そこには絶対「慣れ」は許されるものではないはずですが、いつしか「慣れ」で「作業」を行いだします。
それが医療事故を招くと思います。

 私が社会人になって間もなくの頃、こんな話を教えられました。
ある時、高い木に登っている人がいました。
 下では皆がハラハラしながら見守り、「大丈夫か」「気を付けろよ」などと口々に叫んでいました。やがてその男はあと1m少々で地上というところまで降りてきました。
 すると、それまで黙って見ていた木登りの名人が、いきなり「おい、危ないぞ。注意して降りろよ」と声を掛けたのです。

 それを見ていた見物人の1人が「あなたはいままであんなに高いところに登っている時に平気な顔をしていて、もう地に足が着くか着かないところで、注意しろと声を掛けるのはなぜだ」と尋ねました。
すると名人曰く。
「高いところはこちらから一々言わなくても、本人も必死だから注意する。ところが、あと少しの所に来ると、やれやれと気が緩む。そういう時が一番怪我をしやすい」

 大事故を起こすたびに「初歩的なミスで」と謝っているが、ミスはそういうところで起きるものだし、基本を守らず、「慣れ」の「作業」をするから起きるので、その認識がない限り、事故はなくならない。
 いずれにしろ、私は完全に眠らされるのは非常に怖いと思いました。

2006/11/22

医療ミスに麻痺している病院関係者

 妻が福大病院に入院して以降、私は毎日のように見舞いに通いましたが、病室に行くのは大体決まって7時頃でした。
たまに早く行くこともありましたが、その時は一緒に食事をしようと思っている時で、病院食が出る6時に間に合うように車を飛ばしたものです。
 それ以外はほとんど7時過ぎになるものですから、同室の人に遠慮して、私達はいつも1階の薄暗いベンチに腰掛け、手を握り合って話しをしていました。
そして帰り際には肩を抱いて元気付けてやるのが日課のようになっていました。

 そんなある日、妻がビックリするようなことを言いました。
「今日、看護婦さんがもう長いことしているから、一度針を外しましょうね、と言って、点滴の針を抜いたら血管に糸のようなものがあったので、引っ張ったら血の固まりが糸のようになって10cm以上もスーと取れたのよ」
それって血栓じゃないのか、と驚きました。

「血管障害を起こしているから今度は反対側にしましょうね、と言って反対側にしたのよ」
そう言いながら妻は腕を見せました。
血管が10cm程赤く見えました。
血栓が途中で切れることなくスーと抜けたからよかったものの、もし途中で切れていたら、と思うと、私の方が鳥肌が立ってきました。

「M城先生にそのことを言ったら、あっ、これは湿布しとけばすぐ治るから何も心配することはない、と言うのよ。でも、若い担当の先生が腕の包帯を見て、どうしたの、と言うから、こうこうと説明したら顔色が変わって色々見てくれたから、あれはやはり危なかったのじゃないかと思う」
それを聞いた時、私は血管障害で血栓ができていたと確信しました。

まかり間違えば医療事故になっていたかも分かりません。
もし血栓が脳の血管に詰まれば脳血栓です。言語障害や半身不随ということにもなりかねません。それなのに「大したことない、湿布しとけばすぐ治る」と平然と言ったM城医師の常識を疑いました。

 実はこのM城医師、沖縄地方に多い名字をした彼は整形外科では腕がいい医師として知られているらしい(看護師達の話)のですが、結構横暴らしく若い看護師がよく泣いていました。
 そして後に、私達はM城医師の患者を患者とも思わない態度に転院を決意したのです。病院関係者の評判と患者の評判は必ずしも一致しないということです。

「○○の常識は社会の非常識」とはよく言われることですが、ほとんどの医療事故は難しい部分で起こるというより、初歩的なミスが原因で起こっています。
酸素吸入の代わりに笑気ガスを吸入させたなどというのはその典型でしょう。

 そういう意味では、私達は手術をしなくてよかったね、と言い合ったものです。
もし手術をしていたら、本来の病気以外の部分で亡くなる危険性があったからです。
これは患者にとって非常に怖いことです。

 手術や医師を信頼できなければ、患者はどうすればいいのでしょうか。
白衣が悪魔の黒マントに見えれば、安心して手術台に寝ることなどできないでしょう。
「輸血の血液型は間違ってないか」
「いま、しようとしている注射器は取り違えてないか。針を刺す前にもう一度名前を確認して欲しい」
「私の名前は○○だよ。カルテの名前と一致しているか、最後にもう一度確認してくれ」

 こんな心配をしていたら、治る病気も治らないどころではなく、ストレスで死んでしまいかねません。
笑い話ではなく、現実にたくさん起こっているだけに怖いものがあります。
 飛蚊症で絶対手術が必要と言われたが、外国で診てもらうと手術の必要はない、と言われたが、そのために外国まで行って治療してもらうのも大変だからと、言われるまま国内で手術をしたところ視野狭窄になった、というメールも届きました。
 表には出ないちょっとした医療ミスは数多いと思います。
外部に出ないミスはもみ消されますし、教訓になりません。
患者が勇気を持ってそれらを一つ一つ表に出していくことで医療ミスが減っていくのではないでしょうか。

2006/11/16

病院の桜

 末期癌と宣告されたものの、福大病院に入院した年の4月、桜の頃は妻もまだまだ元気で、病室に心理学の本を数冊持ち込み読んだりしていました。
実は、妻はその1年以上前から心理学講座に通っていました。
退職後は心理カウンセラーになり、人の相談に乗りたいと考えていたようです。
後日、机の引き出しを開けると心理カウンセラー養成講座の新聞広告の切り抜きが出てきました。

 福大病院の桜はきれいでした。
風がない時は散歩がてらに二人で桜を見に庭まで降りて行きったものです。
点滴装置をガラガラと引きずりながら。
「桜は花の季節だけじゃなく1年中楽しめるのよ。花が散った後の葉でしょう。秋は紅葉でしょう」
 妻は楽しそうに喋り続けます。

「そう言われればそうだね。花ばっかりに目が行くけど、紅葉するんだね」
「皆、桜が紅葉するとは思ってないけど、桜の紅葉が一番きれいじゃないかしら」
 そんな会話を交わしながら、三脚を組み立て、セルフタイマーで二人一緒にカメラに納まったりもしました。

「パジャマでなければよかったね。点滴がいかんね」と妻。
「いいじゃないか。では、今度は点滴が写らないように写してみよう」
そう言いながら何枚もシャッターを切ったものです。
その時は互いに病気など忘れているようでした。

 でも、その後見舞いに来てくれた友人に妻が「主人が急に写真を撮りだしたから、もしかしたら先があまりないのかもしれん」と言うのを聞いて、私はビックリしました。
その時の言い方は明るくて、半分冗談とも取れる口調でしたが、普段と違うことをすると逆に不安を与えるのだと反省しました。
でも、普段通りに振る舞うというのは結構難しいものです。

2006/11/13

膵臓に腫瘍が発見される。

 妻は一見元気そうでしたが、冷静に考えてみるとよく患っていました。
でも、我慢強いタイプだったから、それをあまり大袈裟に言わなかったのです。
無頓着というか、そういう現実に私自身が目をつむってきたのです。
腸にポリープはいくつもできていましたし、一度などは出張先でかなり下血し、数週間入院したこともありました。

 この時以来、ガン保険の家族保険に入れようとしても保険会社から拒否されていますから、もっと注意しておくべきだったと後悔しています。
 ほとんどの病気は予兆が現れていると思います。それを見逃すかどうかで、その後が大きく変わります。そういう意味では、私は妻の病気の予兆を見逃していた、というより愚かにも気付かない振りをしていたのです。

 膵臓に腫瘍が発見され、どうも入院しなければならないと分かった時、最初の問題はどこに入院するかでした。
私は妻の職場にも私の事務所にも近い天神の済生会病院が都合がいいと考えていました。
 ところが妻は済生会病院に入院することに消極的でした。それは済生会病院では最初の検査で腫瘍を発見しきらなかったからです。

最初にかかったのは天神のクリスタルビルクリニック(現、天神幸ビルクリニック)で、そこが会社の提携クリニックだったため胃腸の内視鏡検査をよくしていました。その結果、腸にポリープが発見され、以後、定期的にそこで検査してもらっており、最初に異常を訴えた時もまずそこに行ったほどです。

 だが、そこでは膵臓の検査はできず、済生会病院に紹介状を書いてもらい検査したのですが、検査結果は異常なしと出ました。
その検査結果に妻が納得できず、クリスタルクリニックの主治医に再度事情を話し、より精密な検査をしてもらうよう済生会病院に連絡してもらい、二度目の精密検査で膵臓に腫瘍ができていることが発見できたのです。

 このような経過があり、妻は済生会病院を信用していなかったようです。
主治医は同病院と福大病院のどちらでも推薦しますと言ってくれていたので、妻が「福大に入院したいけど、いい」と、私に同意を求めました。
もちろん私に異論のあろうはずはありません。ただ、天神の方が見舞客が来やすいと思っただけです。

 福大病院では整形外科病棟に入院しました。
最初は外科病棟が満室で、一時的処置として整形外科病棟に入院となったのだろうと考えていました。実際、婦長さんもそのように思っていたようで、検査が済んだら病室を移りますからと言われました。
 ところが福大に入院している間はずっと整形外科病棟でした。
今でもなぜ整形外科だったのかは分かりませんが、このことは私達にとってプラスに働きました。

ついにガンを告げる

 妻にガンのことを告げたのは私自身が秘密を守り通す苦痛から逃れるためでした。しかも、私は卑怯なことに告げたのではなく、尋ねたのです。妻に自分の病気のことを。
「自分の病気のことが分かってる?」
「膵臓に腫瘍ができているのでしょう」
「うん、それはそうなんだけど、腫瘍といっても分かってる?」
「Y(妻の友達で元看護婦)の話などを聞いているとガンだと思う」
「うん、ガンなんだ」

 正直この時、私はホッとしました。
もし、妻が自分の病名を知ってなければ、私が自分の口でガンだと告げなければならなかったからです。

「うん、ガンなんだ」と言った時、私は涙が出そうになりました。
いや、本当は大声で泣きたかった。
知らせたくなかったガンのことを知らせてしまったこと、それを自分の口からではなく妻に言わせたことをその瞬間悔いたからです。
最後の晩餐でイエスを裏切ったユダに私はなったのです。
許して欲しい・・・。
今はひたすら妻にそのことを詫びる毎日です。

 「私はガンで死にたい」と言った(書いた?)医師がいます。
私はそれは医師だから言えること、あるいは医師の勝手な言い分だと思います。
ガンで死なせたくはなかった。
ガンと知らせたくはなかった。
やはり、それは現状では、まだ死の宣告と%u540

2006/11/11

ガンの告知について(2)

 告知しない、と決めた私でしたが、とうとう告知することになりました。
また後程触れますが、いろんなことがあり、半年後九州ガンセンターに再入院することになりました。
 先生にいままでの経過を話し、最後に「実は本人にはガンだと告げていないのです」と話すと
「でも、ここはガンセンターですから、入院すればご本人もガンだと気付かれるでしょう。なにより大事なのは本人も自分の病気のことを分かって、我々と一緒に闘っていくことです。その方が我々も治療を進めやすいし」
 と言われました。

 その通りです。ガンセンターに入院するのだから、ガン以外の病気で入院すると考えるのはおかしな話でしょう。
それでもガンセンターに入院しようと考えたのは、ガンセンターという病院を選んだからではなく、患者(この場合は我々ですが)との信頼関係を築けるドクターを探して、たまたまそのドクターがガンセンターの先生だったというだけです。
ですから入院する予定だったわけではなく、そのドクターが入院治療を勧めたから入院したわけです。

 実は私達は非常に慎重にドクターを選びました。
これは医療とは何かということに繋がってくるのですが、そのことは後に触れるとして、簡単にそこに至るまでの経過を説明すると、人の紹介である先生に会いました。
 その方はすでに現役を離れていらっしゃいましたが、妻と2人でその先生に会い、話をして、非常に信頼できる先生だと私達は感じ、その先生が紹介してくださる先生だから、同じように信頼できそうだと思ったのです。

 ドクター仲間の評判はよくても、患者との関係は違うということは往々にしてあります。
むしろそうした例の方が多いかもしれません。
だから「一度お会いになって決められませんか」と、その先生が勧めてくださったのです。
「この先生ならよさそう」
ガンセンターで私達が会った直後、妻は晴れ晴れとした顔でそう言いました。

 いずれにしろ、主治医から告知した方がいいのではと言われましたが、私は即答を避けました。
「少し考えさせてください」
 その場では、そう答えました。
 それから数日、迷いました。
これが膵臓や肝臓でなければ、もっと以前に告げていたでしょう。
それはいろんなものを調べた結果、かなりの部分治るという確信のようなものを抱いていたからです。
でも、調べれば調べる程、膵臓はわずかの希望さえ打ち砕いていきました。
 春以降、私は仕事もほとんど手に着かない状態でした。
またしてはインターネットで調べる、そんな時間を過ごしていました。

 結局、病名を告知することになりましたが、それは正直に打ち明ければ、私自身が自分に負けたのでした。
自分がガンだと分かり苦しむ妻のことより、結局、私が秘密を守り通す苦痛から逃れたかったからです。
許して欲しい。
いまはひたすら妻に許しを請うています。
それから5年。
いまでも私は告知したことを後悔し、すべてを投げ捨ててでも妻の看病につくさなかったことを後悔し、許しを請い続けています。

2006/11/09

治療に疑問を持ち始める

 本人にガンと告知しないと決めましたが、そのことでいくつかの困ったことがおきました。
1つは妻が病院の治療に疑問を持ち始めたことです。
3月5日に福大病院に入院し、5月19日に退院しましたが、退院といっても普通に言う病気が完治しての退院ではなく、抗ガン剤(とは本人に知らせていません)と放射線治療の1クールを終えた、つまり一応治療をしてみたが、効果も現れず、かといって転移もせず、現状維持なので、あとは通院治療に変えましょうという退院です。

 それでも本人にしてみれば、どんな形であれ退院というのは希望があるわけで、やはりどこか明るい気持ちになります。
 以後、1週間に一度通院するのですが、通院しても月に一度血液検査をするだけで、あとは薬をもらうだけです。
それも散々待たされて。

 薬をもらうだけといっても、そこはそれ、一応主治医が問診をしてから薬ということになるので、診察の順番待ちをしなければなりません。
それも9時に行っても12時近くにならないと診断してもらえません。
4時間も待ち時間があると健康な人間でも疲れます。ましてや病人です。待ち時間が病気を悪化させるようなもので、病人を再生産するためにやっているのではないかと疑いたくなりました。

 この辺りが大学病院のおかしな所ですし、今の医療の問題と絡めてこのことは後程詳しく触れてみたいと思っています。
 いずれにしろ本人が薬しかくれないのならもっと効率を考えて欲しいと考え出したことに加え、もらっている薬の中身が痛み止め中心だということに疑問を持ち始めました。
幸か不幸か同じマンションに九大病院に勤務されている人がいて、そこの奥さんと話をしている時に本人がそのような疑問を口にすると、それはおかしいですね、九大にいい先生がいらっしゃるから聞いてあげましょうか、というような話になりました。

 そしてそのことを妻が私に言います。
「痛み止めの薬だけで、病気を治すための積極的な治療をしてないのはおかしいと思わない。そんな治療しかしないのなら九大病院を紹介してあげると言ってくれてるのだけど」
 と。
これには正直参りました。

 いまさら手術も出来ない、できることは痛みを和らげることぐらいだ、とはいくらなんでも言えません。
「痛み止めの薬だけではないだろう。何種類ももらっているし、いまは入院中の治療の効果がどのように出てくるか、その様子を見ながら治療してくれてると思うよ。入院中はよくしてもらったでしょう。ドクターを信じなきゃ」
 と、分かったような分からないような説明をして、なんとなく本人の疑問をうやむやにしました。

 でも、ただうやむやにしただけですから、同じ疑問が本人の中で何度も頭を持ち上げてきます。
それを問い質されるのが辛かった。
一度など怒ったことさえあります。

「ぼくが何か隠しているわけではない。先生から全部聞いているし、そのことはお前にも全部話しているよ。状況を見ながら治療しているのだから、病気に打ち勝つには体力も付けないとダメだと思う。そして次の段階を行うのだから。病は気からと言う言葉があるけど、”気”というのは”気持ち”ということもあるけど、”気”のエネルギーということで、マイナス思考をしていると”気”が弱ってくる。病気は”治る”のではなく”治す”んだと思うよ」

 今考えると、私は随分妻に厳しいことを言ってきたと思い、反省をしています。

2006/11/08

対応が分かれた2人の友人

 告知しない、という私の選択は正しかった。
妻の叔母に話した時、そう納得しました。
 それは叔母が
「私も乳ガンと知らされた時、世の中が一変してしまった。もう生きた心地がしなかった。知らされん方がよかった。容子も私と性格は似ているから、強そうに見えても実際は違う」
 と話してくれたからです。

 でも、黙っているのは結構辛いものです。
「ロバの耳」を思い出していました。
喋ってはいかんと言われれば言われる程喋りたくなり、とうとう土を掘って、穴に向かって「王様の耳はロバの耳だ」と言うあの話です。
結局、独り秘密を持ち続けることができず、母と、妻の最も近い身内の叔母、それに友人2人に喋ってしまいました。

 1人の友人は兵庫県なので、彼に喋ってもそこから話が広がる恐れはないという安心感から、つい打ち明けたのですが、以来、彼は10日と空けずに電話をくれ、「奥さんの具合はどうね。自分は大丈夫か。自分まで倒れたらなんにもならんで。そうか元気ならいいわ」
 と励まし続けてくれました。

 もう1人は福岡にいる、古くから知っている知人ですが、彼の対応は正反対で、見舞いどころか妻の葬儀の時にも現れませんでした。
 思えば、彼がいままで私に近付いてきていたのは、私が利用できると思ったからで、妻の入院で私が忙しくなると利用価値がなくなると思ったのでしょう。

2006/11/07

ガンの告知について(1)

 ガンの告知はすべきかどうかーー個々に意見の分かれるところだと思います。
妻が最初に福大病院に入院し、検査結果が出た時、私が医師に呼ばれてガン、それも末期だと告げられました。
それと同時に、病名を本人に告げるかどうかの決断をその場で求められました。1人で決断するにはあまりにも重すぎる問題です。
できれば数日、考える時間が欲しい。それがその時の私の偽らざる気持ちでした。

 この時、私はその年の正月に妻と交わした会話を思い出しました。
私の実家は岡山県北で、いまでも母はそちらに居ます。
父は9年前に亡くなりましたが、父が健在な頃から、正月は両親がこちらに来て家族4人で過ごすのが習慣になっていました。
父が亡くなってからは家族3人になりましたが、それでも年末近くになると母がやってきて、正月を一緒に祝うようにしていました。
その年の正月も母が来ていました。

 話のきっかけは忘れましたが、なぜか墓やガンの話になりました。
「もしガンになったら、そうね、ぼくは知らせて欲しいな。お前は?」
 と妻に聞きました。
母ではなく妻に聞いたのは、老い先短い母にそれを尋ねるのは仮定の話ではなくなりそうな気がしたからです。
だが、私や妻の場合は「死」を話題にしてもまだ仮定の話です。
当分、縁がない、と思っていましたから。

「私は自分の人生だから知らせて欲しい」
 妻はそう言った後、少し躊躇って
「いや、知らせて欲しくない」
 と、前言を訂正したのです。

これは少し意外な反応でした。
私の場合は「知らせて欲しい」と言いましたが、それは多少粋がって言った部分があり、内心は、もし自分がガンだと分かったらとても冷静ではいられないだろうと思っていました。
その点、妻の方がしっかりしていると考えていましたから、妻の「知らせて欲しくない」の言葉は、私には随分意外な気がしたものでした。

 ともあれ、医師から告知するかどうかの決断を迫られた時、ふいにその時の会話を思い出しました。
「知らせません」
「分かりました。それなら我々も本当の病名は伏せておくことにします。しかし、大事なのは一度決めたらそれを途中で変えないことです」

 かくして、妻にはガンを伏せたまま病院側も接することになりました。
だが、根掘り葉掘り聞かれた時、どう答えるか。
その答えが私と病院側で異なると不審を抱かせ、逆にガンだと思わせることになります。
そこで膵臓に腫瘍が出来ているという部分までは言ってもいいと医師に伝えました。
というのは、腫瘍らしいものが出来ているということは、すでに入院前から本人も知っていたからです。だから冷静に考えれば腫瘍=ガンだということは分かるはずです。
でも、我々はそれで押し通しました。

妻もその頃はどこが痛むというわけでもなく、健康体そのものという感じだったので、それ以上疑わなかったようです。
実際、非常に明るくて、当時見舞いに来た人も「本当に病気なの? 私らの方が病人みたいよ」などと笑っていました。
本当に私もガンというのは誤診ではないかと思った程でした。

2006/11/06

モルヒネと緩和医療

 ガン患者にとって最大の敵は痛みです。
痛みさえコントロールできれば随分楽になります。
いわゆるクオリティライフがおくれます。
痛みをコントロールするのはペインクリニックと呼ばれ、最近ではかなりその地位が上がってきましたが、以前は麻酔科と呼ばれ、外科医の下、付随的なものと見られてきました。
その傾向は現在でもそれ程変わりません。

 そのため患者にとっては生活する上で最も重要なウェイトを占めるにも関わらず、痛みのコントロールは軽んじられてきたのが非常に残念です。
また、一部ではモルヒネに対する古いイメージ、いわゆる常習性の問題です、があり、医師からもきちんと説明されないため、不安の中で服用しているという部分もありそうです。

 妻も当初、モルヒネの量が増えるのを嫌い、少し調子がよければ服用する時間を伸ばすなど自分で多少調整していました。
特に気功治療を併用するようになってからはそうです。
気功の先生が「できればモルヒネの服用は止めて下さい。治りが遅くなりますから」と言われたこともあり、できるだけモルヒネの服用を我慢するようになりました。
 でも、その結果、ベッドから起き上がれなくなり、鈍痛のような痛みに悩まされ続けたのです。

 私も、我慢できるのならモルヒネの量は減らした方がいいだろうという考えには賛成でした。
 しかし、飲まないことで痛みが増し、苦しむのなら、飲んだ方がいい、痛みさえ緩和されれば日常生活ができるのだからと、無理に我慢せずモルヒネを飲むよう勧めました。
 それと同時に、いかに最近モルヒネが進歩し、緩和医療に貢献しているかという新聞記事も見せました。
客観的資料を見せることにより、薬に対する不安感を取り去ろうとしたのです。

 ガン患者にとって痛みの緩和が最大の治療だと思います。
痛みさえなければかなりの部分、日常生活が送れるからです。
私は妻が膵臓ガンと分かった時、最初にしたことはインターネットで治療法を調べたことです。

 調べれば調べるほど、結果は希望を無惨に打ち砕くものでした。
膵臓以外は治ったという報告例が数多くあるのに、膵臓だけなかったのです。
 AHCC首都圏普及会にもメールで問い合わせましたが、結果は「残念ながら」というものでした。生存期間が短いので症例が取りにくいからで、効かないということではないというのがせめてもの慰めの言葉でした。
 昨年1年間は本当に仕事どころではありませんでした。
もしかすると本人以上に私の方がうろたえ、落ち込んでいたかも分かりません。

 モルヒネの中でもMSコンチンは常習性などの副作用が比較的少ない、いい薬であり、なにはともあれ痛みを緩和しよう。痛い、痛いと言っていては治る病気も治らないからと言い聞かせ、本人も「この痛みさえなければ、どんなに楽か」と、モルヒネをきちんと飲むようになりました。

2006/11/05

糖尿病専門病院なのに

 発病の2年前、妻は福岡市平尾の、よくマスコミにも取り上げられている女性M院長の糖尿病専門病院、MM内科クリニックで糖尿病だと診断され、食事療法を勧められました。
 福大病院に入院した時、ドクターから「糖尿病の専門医なのにどうして膵臓を疑わなかったのか」と言われました。
もし、その時点で膵臓ガンの検査をしていたら手術が可能だったのに、と。
おざなりな診断がガンの発見を遅らせたのです。

 妻ががんと分かってすぐ私はアガリクスを飲ませました。
アガリクスは新聞の広告欄でよく目にしていましたが、私が求めたのは最上のものです。
その時思い出したのが福大教授N氏の、アガリクスにはいろいろあるが○○はお勧めだという話でした。早速注文し、以来毎日病院に届けました。

 AHCCは知人から教えてもらいました。
インターネットで検索すると全国で医師がガン治療に使用しており、使用病院名も載っていました。
アガリクスと同じようにキノコ多糖類を中心にしたものです。
なぜ医師がガン治療に使用しているかというと、工場で成分管理の下に製造されている(化学系ではない)ので、きちんとしたデータが取れるからです。その結果、ガン治療に効果があると認められたわけです。

 私はこれらの健康茶や健康食品を妻が自力で服用できる間ずっと飲ませました。
それは免疫力を高めるということもそうですが、放射線治療や抗ガン剤による副作用を緩和した事例がいくつも報告されていたからです。
 実際、放射線治療でも髪が抜け落ちることはなかったし、抗ガン剤の副作用と思われるものもそれほど激しいものはありませんでした。

 一般的に膵臓ガンは痛みが非常に激しいと聞いていました。
ひどい時は悲鳴を上げ続ける、と。
でも、妻の場合、こんなに痛むのなら死んだ方がまし、というような痛みはなかったと、私は感じています。
それもこれら健康食品を当初から飲ませていたからではないかと思っています。

 ただ、健康食品の難点は薬効作用があると言われているもの程価格が高いことです。
だが私が注文したアガリクスはその当時は良心的な価格でした。
「飲み続けられるために価格を低く抑える」
それが企業理念だ、というようなことが当時、たしか書いてありました。
この点も気に入った理由です。

 アガリクスにしろAHCCにしろ様々な末期ガンが治った例を報告していますが、いずれも膵臓ガンだけは報告がありません。
その点が私の不安でした。

ナチュラルキラー細胞の活性化と日本ヤマニンジン

 ドクターから「末期」と聞かされはしましたが、それでもまだ私は楽観的でした。それにはいくつかの理由(と呼べるかどうか)がありました。
 1つはそれより以前から健康食品を飲ませていたことと、入院してすぐアガリクスとAHCCを常飲させていたからでした。
そして抗ガン剤の24時間投与もプラスに働くと考えていました。

 以前から飲ませていた健康食品とは「日本ヤマニンジン」です。
これはたまたま「わかさ」という雑誌社の依頼で取材をしたのがきっかけで私が飲み始めたもので、妻にも飲ませていました。

 「日本ヤマニンジン」は朝鮮人参に似ていることから付けられた名前で、日本にしか存在しない珍しい薬草です。自生地は九州の霧島山系、四国剣山系、紀州半島というごく限られた地域です。
 霧島地方では江戸時代から「神の草」と呼ばれてきたようですが、薬効が確かめられた昭和になってからで、手足の血行障害が原因の突発性脱疽で足指の切断を宣告された高木孝一さんが、日本ヤマニンジンの根を煎じて飲んだところ回復したため、成分研究を愛媛大学医学部の奥田拓道教授に依頼したのでした。
 その結果、この薬草には血小板の凝集を抑制する作用があることが分かりました。

 ここでは詳細な説明は省きますが、日本ヤマニンジンには血流をよくする作用があるということです。
 その後の研究でインシュリンの抹消での働きを高める作用や、発ガンプロモーターを抑制するとともに、ガン細胞を攻撃するナチュラルキラー細胞の増加・活性化作用があることも分かりました。
つまり高血圧の防止や糖尿病、ガンにも効果があるということです。

異常を訴えた妻

 妻が異常を訴えたのは2001年の正月でした。
背中の辺りが痛いと言い、正月3が日はまさに寝正月です。
でも、その時は疲れからくる腰痛ぐらいにしか考えていませんでした。
元々我慢強いタイプでしたが、余程痛かったのでしょう、正月が明けるとすぐ病院に行き検査をしてもらいました。
大きな病院でしたが、検査で異常は発見されませんでした。
それでも、本人がおかしいと思い、別の所で再検査をしてもらった結果、膵臓に腫瘍が見つかりました。

そして福大病院に入院したのが3月。
再び数週間かけて再検査です。
ドクターから告げられた言葉は「末期ガン」。
「手術は非常に難しいので勧められない」ということでした。

「私達が言う”末期”と世間一般によく言われる”末期”とは違います。末期だと言うとすぐホスピスに走ったりする人がいますが、そういうことはしないで下さい」
「治療は放射線を主体に行います。抗ガン剤も併用したいので、使用を認めて欲しい」
「認めて欲しい」とドクターが言ったのは、抗ガン剤は副作用が激しいから嫌がる人が多いためでしょう。

抗ガン剤と聞いて、私が考えたのは夜間投与でした。
抗ガン剤の夜間投与で効果を上げている例をTVで見たことがあったからです。
それと同時に看護婦の勤務態勢の問題があり、24時間治療を実施できる病院が極限られていることも知識としてありました。

「ちょっと生活は規制されますが、24時間点滴を行います」
そう言われた時、このドクターは抗ガン剤の夜間投与のことを知っているなと思いました。大学病院では勤務態勢上、それができないので、24時間点滴をするのだろう、と。
それで私は抗ガン剤治療に了承しました。

 でも、最後にどうしても知っておかなければならないことがありました。
それは余命の問題です。

「余命はどれくらいですか」
私は漠然と、あと2年もすればガン治療は飛躍的に進むと考えていましたから、余命2年なら助かる確率があると思ったのです。
「10カ月から持って1年です。近くに血管があるのでそこに浸潤すればもっと速くなるでしょう」

職業柄ということは分かります。
でも、この時ほど医師の無情を恨んだことはありません。
上を向いて必死に耐えました。
下を向くと涙がこぼれ落ちるから。
もう何も言えなかった。
言葉を発すると嗚咽が出そうだったから。
ひたすら奥歯を噛み締めて耐えました。